法律の改革
1926年から1930年の短期間で、トルコ共和国は法律の改革を成し遂げました。
◎ イスラム法律の廃止
◎ 非宗教的法律体系の導入
◎ スイス、ドイツ、イタリアをモデルとした新しい民法典、刑法典、商業上の法律の確立
◎ すべての国民−男性も女性も、富める者も貧しい者も−みな法のもとで平等あるとすること、これにより法の堅固な基礎を固めました。
社会の改革
非宗教的政治と教育をメインテーマとし、宗教は個人の倫理であり、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒も全ての人が自由な思想のもとに生活できる環境を整えました。結果として、非宗教的社会が現実のものとなりました。アタチュルクが共和国宣言をした時、「新しいトルコ共和国は人民の国であり、人民によって作られる国である」と演説しました。
◎ トルコ帽の禁止
◎ 女性のスカーフの禁止
◎ 全国民が苗字を持つこと
◎ イスラム暦から西洋暦への変更
経済の改革
共和国になるまでに数多くの戦争を続けたため経済は非常に落ち込んでいましたが、共和国を繁栄させるためには経済の独立が必要であるとして数多くの目標を持って改革をすすめました。
◎ 農業の開拓
◎ 産業の成長と先進技術の導入
◎ 炭鉱、交通、製造業、銀行、輸出、住居、通信、エネルギー、機械化の推進
◎ GNPを5倍にする
言語の改革
「教育の基礎は読み書きの簡潔さである。そのためにはラテンアルファベットをもとにした新しいトルコアルファベットが必要である。」と言い、誰もがそのような試みは困難であると考える中、アタチュルクのリーダーシップのもと文字の大改革を実行しました。1928年それまで千年間も使われていたアラビア語がラテンアルファベットに置き換えられました。
当初アタチュルクは専門家に「どれくらいの期間必要になるのか?」と尋ねると彼らは「少なくとも5年間は必要です。」と答えました。するとアタチュルクは「では私達は5ヶ月でやり遂げる。」と言ったそうです。
1920年代が終わろうとするときには新しいトルコアルファベットが完全に導入され、8母音21子音合計29文字のトルコアルファベットは子供達にとっても容易に覚えられ、西洋の言語の習得にも役立ちました。また、数千の単語がアラビア語やペルシャ語を起源とするものでしたが、それらをトルコ語に変えたり他の外国語を借用したりすることでアラビア語やペルシャ語を排除するような改革も同時に行い、トルコ語を独自のものとして確立したのです。
アタチュルクの言語改革はこうして大成功をおさめ、トルコの歴史重大なる出来事のひとつとして考えられています。
女性の地位の改革
「この世の中で見るもの全てが女性によって作られたものである。」
トルコ女性に男性と同様の権利と機会を与えるためにアタチュルクは多くの改革を手がけました。1926年に制定された新民法典では一夫多妻制を廃止し離婚や遺産についても女性に男性と同等の権利を与えることを承認。また小学校から大学までを通じ男女共学にしました。
アタチュルクは国民開放戦争時代に得た女性の支援と協力を大変賞賛していたのです。「トルコ社会において女性は知識、学問、文化において男性にひけをとっていない。おそらくもっと進歩しているのだろう。」
アタチュルクは全政治権利においても女性に男性と同等の機会を与え、1930年代半ばには国民議会に18名の女性議員を持つこととなりました。その後トルコは世界最初の最高裁判所裁判官を誕生させました。アタチュルクの改革によりトルコは数多くの医者、弁護士、技師、教員、作家、芸術家など優秀なる女性を生み出したのです。
教育の改革
「政府の最も創造的かつ重要な義務は教育である。」
アタチュルクは社会と経済の発展を刺激するには教育が最も重要なものであると考え続けていました。彼は独立戦争後、教育省の大臣になりたいと考えていたほどです。アタチュルクは共和国の大統領として、トルコ社会に存在する全ての人々に教育を浸透させるための努力を惜しみませんでした。自らチョークやえんぴつを持ってクラスルームや公園、その他どこへでも出かけていき子供から大人にまで文字の読み書きを教えました。そしてトルコは子供や大人に向けての学校教育プログラムを始めたのです。
◎ 小学校から大学院までの授業料は無料
◎ 非宗教的教育
◎ 男女共学
◎ 小学校の義務教育家
◎ 読み書き能力を向上させるためのプログラム
文化と芸術の改革
アタチュルクは「文化はトルコ共和国の基礎である。」、「文化は人間を立派にする基本的要素である。」と考え、彼の文化に対する見解は世界文明の最も価値あるものとして国が生み出した創造的遺物を保護しました。そして最も素晴らしいものを作り上げるために、古代固有の文化等の遺産の中で世界文明の芸術、技術などの利用などを考慮しました。セルジュクやオスマントルコ帝国などイスラム文化以前の文明であるヒッタイトやフリジアン、リディアンなどを含むアナトリアの文明の研究を推進しながら、トゥルク民族達sの作り上げた文明についてもその伝統的文化を広範囲にわたってその源泉を調べました。
そしてアタチュルクが大統領を務める期間には多くの芸術が花開きました。多くの博物館が開設され、西洋音楽、オペラ、バレエ、観劇なども広く取り入れられました。トルコ中には多くの施設が建設され若い人達や芸術家が集まれる場所やスポーツや文化活動ができる場所が開放されるようになりました。多くの出版物も出され、映画界が成長し始めたのもこの頃です。
内に平和、外(世界)に平和
外国の侵略軍に対して多くの戦いを終え勝利を勝ち取ったアタチュルクは平和の価値を知り、大統領時代に最高の安全確保をしました。「平和は国民にとって繁栄と幸福を達成させるために最も効果的なものである。」と唱え、他国との友好条約や協約を結び、「トルコ民族は全ての文明国家の友人である。」と主張。そしてギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、イラン、イラク、アフガニスタンと協約を結び、ソビエト連合、アメリカ合衆国、英国、ドイツ、イタリア、フランス他の国々とも友好関係を維持しました。
1930年代前半にはギリシャの大統領と平和協力条約に調印。1932年には国際連盟からメンバーになるようにと招待されました。
このようにアタチュルクのたゆまない努力はトルコ共和国を平和に導いたのです。1938年の彼の死において国連は「真の国際平和調停者」と賛辞し、1981年のアタチュルク生誕100周年においてUNESCOは「戦争を嫌う偉大なるトルコ政治家」として敬意を表しました。