エディルネ観光〈基本情報〉
全般
エディルネ市は、トルコのヨーロッパ部分つまりイスタンブールの西側に位置し、ギリシャの国境まで7km、ブルガリアの国境まで18kmという場所に位置しています。
トルコの西端トラキア(Trakya)地方の中心であるこの街は、オスマントルコ帝国の2番目の首都として栄えた都で、当時の繁栄を偲ぶ美しいモスクの数々、歴史ある建物等はヨーロッパから来る人々のトルコにおける玄関として相応しい魅力的な街なのです。
歴史
新石器時代にはこの地域に人々が住んでいた事を証明する遺跡が発掘されており、その後も多くの民族がこの地をめぐる戦争を行っていましたが、紀元前5世紀にはトラキア種族のオドリス民族がこの地域で定住し、紀元前4世紀頃にマケドニア人、その後ローマ人達がこの地を求め、ローマ帝国ハドリアヌス皇帝がこの地を正式に治めてからは、オスマントルコ帝国に占領されるまでの間、多くの戦争により移民者を受け入れながらもローマ帝国の影響を濃く残す街となりました。
1361年にオスマントルコ帝国がこの地を占領したことから、翌年首都がブルサからエディルネに移りました。1453年までの90年余りの間、オスマントルコ帝国の首都として栄えたエディルネは、帝国の繁栄をそのまま受けて新たな街づくりが行われました。
その後オスマントルコの首都がイスタンブールに移った後も、一部のスルタンたちは中佐達にイスタンブールを監督させながら、この静かな街エディルネで生活することを好みました。メフメット4世(1648〜1687)、スレイマン2世(1687〜1691)、ムスタファ2世(1695〜1703)等がエディルネでの宮殿生活を満喫していたのです。
1700年頃には人口35万人となり、イスタンブール、パリ、ロンドン等に並ぶヨーロッパの7大都市のひとつとなったほどです。
しかし1745年と1751年の2度にわたる大火事により街は大きな損傷を受けてしまいました。
その後1829年及び1878年のロシア軍の侵略、1913年3月26日から4ヶ月間はブルガリアに一時的に占領され、第1次世界大戦後はギリシャによって支配。
1922年11月25日にようやく解放されたもののこれらの事件によりエディルネは世界から取り残される状況となってしまったのです。1923年にトルコ共和国が建国されると、再びエディルネは古都としての風格を残しながら少しずつ活気を取り戻すこととなりました。
エディルネという街の名前はこの地の創設者であるハドリアヌスにちなんでスルタン ムラト1世がオスマントルコ帝国としてこの地を治めた時に名づけた地名と言われています。
しかし街の名は第1次世界大戦直後あたりまではアドニアノポール(Adrianopole又はハアドリアノポリス)として知られていました。
19世紀の終わり頃までは、この地域は豊富な水源を利用して穀倉地帯及び牧草地帯となっていましたが、多くの移民者の流入による農業形態の変化により、現在では主に煙草やひまわりを生産しています。しかしながら家畜は現在も行われ乳製品の街としても知られています。
エディルネ名物
アルナヴト ジエリ(Arnavut Cigeri レバーのフライ)、白チーズ、アーモンドペースト(Badem Ezmesi 写真左)、デヴァイミスク(Deva−i Misk)と呼ばれる砂糖菓子(写真左から2番目)、果物の形をした香り高い石鹸(写真右から2番目)、ほうき(写真右)等で有名です。
エディルネのアーモンドペーストはオスマントルコ帝国時代からの歴史あるもので、この地から世界に広まったと言われています。エディルネからヨーロッパに渡ったアーモンドペーストは形を変えてマジパンとして浸透したものです。
デヴァイミスクは、ヘルヴァ(Helva)と呼ばれる砂糖菓子の一種で、アーモンドペースト同様オスマントルコ帝国時代から現在に受け継がれるお菓子です。もともとスルタン達が娘に薬として食べさせていたもので、のちに甘味を増やし、香りを高めて現在の姿となったものです。原料は砂糖、卵の白身、ハーブ等が入っています。
又、毎年6月にはクルクプナル(Kirkpinar)と呼ばれるオイルレスリング(油相撲)が開催されます。
手工芸が盛んで、特に彫刻や木の染色、革製品等も有名です。
エディルネへの交通
イスタンブールからはバスが便利です。長距離バスターミナルから頻繁に運行されています。15〜30分間隔でエディルネ行きのバスが各バス会社から運行されています。
イスタンブールから235km、約2時間半
チャナッカレから230km、約4時間
長距離バスターミナル
0284−225−1979
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