ヒッタイト人は歴史上民族的にも文化・文明的にも非常に重要であると考えられているものの、その謎はまだ全てが解明されていません。ただしヒッタイト人達は農耕生活をしていましたが主要な活動は商業であり偉大なる商人達であると同時に、優秀な戦士でもあり多くの包囲攻撃の戦略を生み出したことは間違いないようです。
年代的にもいろいろな説がありますが、概要的にはヒッタイト帝国の最盛期は紀元前1600年代から紀元前1200年代とされています。しかしその後アッシリア人達がメソポタミア地域に勢力を伸ばしたあともヒッタイトの街々は紀元前717年まで独立状態で繁栄を続けました。これにより、一般に紀元前1600年代から1200年代をヒッタイト帝国、その後紀元前717年までを後期ヒッタイト王国等と呼び区別されています。
ヒッタイト人の言語
ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族系の民族であることから、英語・ドイツ語・ギリシャ語・ラテン語・インドの言語と同系であり、それらの言語と非常に類似した言葉を話していたと考えられます。彼らは外交文書にはアッシリアに属すアッカディア語の楔形文字を利用し王室内や宗教上はヒッタイト人達独自の象形文字又は楔形文字を利用していたということがわかっています。
ヒッタイト帝国の社会
ヒッタイト帝国においては、王が偉大なる権力を持ち全てを包括的に管理し、支配者であると共に軍事指揮官、裁判官、そして高僧の地位が確立していました。又、女性の地位は卓越したものであり、王の妻も王同様の権力を握り内政だけでなく外交に関してもおおいに活躍しました。一般社会においても男女平等の概念が浸透していたことが確認されています。
法律に関しては、基本的に古代バビロニアの法律であるハムラビ法典を受け継ぎながらもより一層人間味のあるもので比較的緩和されたものでした。人権を守る法律なども規定されており奴隷階級の人権さえ守られ、当時の法律としてはかなり先進的なものだったのです。
宗教
ヒッタイト人達は多神教であり、古代バビロニアやシュメールの多くの神を取り入れ、侵略した地に信仰される神がいればそれらの神をも取り入れるという古代日本の氏神に似たものでした。
死後は土葬と火葬の両方式があり、決められた法則はありませんでした。興味深い点は、土葬の場合、動物、特に馬と共に埋葬されることが特徴的なものでした。
ヒッタイトの神殿についてはヤズルカヤ(Yazilikaya)をご参照ください。
カデシュ条約